範宙遊泳『もうはなしたくない』(@早稲田小劇場どらま館、観劇日:2018年3月11日14時の回)

 人は誰しも少しずつ変である。

 「変」というのはいわゆる「変人」とか「狂人」とかいう意味ではなく、自分(他者)と他者(自分)とは異なる人間である、という意味において、人は誰しもが誰とも変でありうる。

 だが、この「変」というのはいくらかの恥ずかしさや気まずさ、あるいは劣等感や嫌悪感を時に引き起こす。たとえば日常の中で、「あの子、ちょっと変わってるよね」と話したり、誰かの(当人にとっては当たり前だと思っている)ある言動に対して、「ちょっとそれおかしくない?」とからかったりして、笑いの種にしたことはないだろうか?あるいは、現代のような均一化を求めるような社会では、「変」である(人と異なる)ということは社会や経済を停滞させる要因であるようにあたかも見做されるかもしれない。そうなると人はその「変」である部分を隠そうとして、いわゆる「通常の」人間を演じようとする。演じることで、「変」であることで引き起こされ得る恥ずかしさや劣等感みたいなものを覆い隠そうとする。松井周(サンプル)の言葉を借りるのであれば、人は誰しもPlayしている。

 『もうはなしたくない』に登場する三人の女性(吉村アカネ、南雲マキ、香坂メグ)は、ある理由から劇中それぞれをコードネーム(肉左衛門、バービー、リカちゃん)で呼び合うことになる。メインとなる舞台(メグが住んでいるアパートの一室)もドールハウスのような様相を呈しており、あたかも彼女たち自身が人形(彼女たちの衣装は着せ替え人形の衣装のように華やかだ)となって「ごっこ遊び」に高じているといった趣向で話は進む。

だが、話の途中から「ごっこ遊び」と現実の出来事との境界線が曖昧となり、彼女たち自身遊びを演じているのかどうかが分からなくなっていく。アカネが働いているカフェで遭遇した二人の女性の修羅場を再現しているだけだったのが、次第に彼女たち自身の過去や未来とシンクロしていき、破滅的な現実へと突入していきそうになる。

この混乱した状況を救うのが肉左衛門(アカネ)である。彼女は着ていた服を脱ぎ捨て、服の下に隠していた「モビルスーツ」を露わにさせる。そして「こんなおかしな恰好をしたメイド(カフェの店員)がいるわけないでしょ!だから(ごっこ遊びの内容は)現実にはならない!」と高々に宣言する。この場面では彼女の「変」が状況を救うように働いている。彼女が自身の「変」を曝け出すことで、破滅へと進むかに見えた物語の軌道を大きく逸らせることに成功したのだった。

 もしこの話がこのまま終われば劇は円満に済んだであろう。だがこの直後に“天狗”が登場することで、事態は一変する。この“天狗”は隣室に住むメグ(リカちゃん)の彼氏なのだが、酒に酔った勢いでメグの部屋に闖入してきてしまう。だが実は彼のことが“天狗”のように見えているのはアカネだけで、他の二人には普通の男性の姿に見えているらしい。アカネは極度の男性嫌いで、その結果酔っ払った男が天狗のような化け物に見えてしまったのだった。嫌悪感をむき出しにするアカネに対し、マキ(バービー)は「男も人間だし、人間でなくとも少なくとも生き物だよ」と諭すが、アカネはマキの言葉も頑として拒絶し、部屋を飛び出してしまう。

 この時の彼女はもはや「肉左衛門」ではなくなっている。あるいは「アカネ」ですらなくなっているかもしれない。また、彼女を追いかける他の二人も、マキはもはや「マキ」でも「バービー」でもなく、兎の仮面を被った化け物だし、メグはもはや「メグ」でも「リカちゃん」でもなく、全身びしょ濡れで長い髪を顔面に貼り付け、巨大なフォークを携えた悪魔のような姿である。それはアカネの不安や混乱を反映してのことだろうが、それ以上に日常信じていた見せかけの真実みたいなものがボロボロと剝がれ落ちていく瞬間のようにも見える。そこはもうドールハウスの舞台でもないし、コードネームという見せかけの名前や役割に守られた場所でもない。

 追いかける二人(化け物)に追いつかれたアカネは、しかし最後には彼女たちのことを受け容れる。それは彼女たちが(たとえ化け物のように見えたとしても)、アカネのことを必要としたからだ。そしておそらく、アカネもまた彼女たちのことを必要としたからだろう。アカネは彼女たちに言う。「じゃ、みんな変ってことで」。

 この一言をアカネが発した瞬間、PlayがPray(祈り)に変わったように思えた。若松英輔は『生きる哲学』の中で、「祈りは、願いではない。むしろ、祈るとは、願うことを止め、何ものかのコトバを身に受けることではないだろうか」(『生きる哲学』、文芸春秋、2014年、64頁)と言う。アカネが「みんな変ってことで」という言葉を発する前は、おそらく彼女は「こうあってほしい」という自分の願望を他人や世間に抱いていただろう。メグの彼氏が天狗に見えたり、彼女を追いかける友人たちが化け物に見えたりするのは、「こうあってほしい」という彼女の願望の裏返しとも言える。つまり、彼女の願望から外れてしまったが故に、彼女の友人たちはそのような化け物じみた姿として具象化されてしまったのだろう。だが、「じゃ、みんな変ってことで」という言葉を持つことで、アカネは自分自身の「変」をただ主張するだけでなく、自分以外の「変」であるものをも受け容れた。それはつまり見せかけの均一化された存在を越えて、自分以外の異なる存在に触れたということだ。アカネのこの言葉の後、へんてこな恰好のまま(アカネはモビルスーツの恰好のままだ)、三人で手をつないで歩くシーンは、あたかも祈りの姿に似ている。祈りとはおそらく、自分とは異なるものとなんらかのかたちで触れる(あるいは触れようとする)ということだ。この最後のシーンで、「もう話したくない」という拒絶は、「もう離したくない」という祈りに変わる。最後に仲良くカラオケする三人の姿が影絵になって映し出される光景は、排他的な言動がはびこり、もはや破滅的な道を進むかに見える現代の社会であっても、いつかは破滅から逸れた道を歩むことができるかもしれないという希望を抱かせてくれる。

  

 

範宙遊泳『もうはなしたくない』

作・演出:山本卓卓/早稲田小劇場どらま館/2018年3月3日~11日

公演情報:

演劇 | 範宙遊泳/Theater Collective HANCHU-YUEI