コトリ会議『しずかミラクル』(@こまばアゴラ劇場、観劇日:2018年6月17日16時の回)

  ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

 

 この句は若手の俳人、福田若之の代表句である。この句に関する俳人佐藤文香上田信治の解説を少し引用してみたい。

 

佐藤 この句も、「しあわせが要る」に「どうしても」をどうしても入れなきゃいけない。「どうしてもしあわせが要るヒヤシンス」じゃ全然だめですよね。

上田 5音の「どうしても」が、ここに入ることで突き上げてくるものがあるよね。

佐藤文香編著、『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』、左右社、2017年、14頁。)

 

 ここで少し専門的な話をすると、この句は“句跨り”という技法が用いられていて、言葉が5・7・5のリズムに綺麗に収まるのではなく、7・5のところで言葉が跨っている。実際に引用句を5・7・5のリズムに区切ってみると、

 

  ヒヤシンス/しあわせがどう/しても要る

 

 となる。つまり、「どうしても」という言葉が「どう」と「しても」に切断されていることがわかる。佐藤と上田の指摘はこの“句跨り”から得られる効果を強調しているわけだが、この「どう/しても」というように切断されながらもそれでもなお最後まで言い切らなければならないという態度は、俳句に限らず現在の(いわゆる)若手作家たちの作品を見ていく上で非常に重要なポイントになるように思える。

 

 演劇ジャーナリストの徳永京子氏が先日twitter上で「弱いい派」という流派を新たに命名し、贅沢貧乏、ゆうめい、コトリ会議、範宙遊泳・・・といった劇団名をあげられていたが(2018年6月14日付のtwitter)、たとえば範宙遊泳『その夜と友達』、贅沢貧乏『テンテン』、ジエン社『物の所有を学ぶ庭』といった作品群は、共通して「どう/しても」という態度に貫かれているように思う。これらの作品はかつて隆盛を極めた演劇のように観る者に正面きって何かを熱く語ったりするのでもなく、またその後に続く演劇のように現実の社会を淡々とそのまま描き出すというのとも違う。彼ら彼女らの作品がそれまでの演劇と決定的に違うのは、おそらく絶望しそうなほどどうしようもない世界を描きつつも、それでもなお「どう/しても」というように言葉が切断されながら、あるいは吃ってしまいながらも、「しあわせ」を希求しようとしている点にあるのではないだろうか。「しあわせ」という言葉が大仰に聞こえるのであれば、自分の生きられる場所/呼吸できる場所と言い換えてもいいかもしれない。そういったものを「どう/しても」求めようとする態度が、これらの作家の作品には共通して貫かれている。

 「弱いい派」は演劇の流派に対する命名だったが、おそらくこれは演劇に限った話ではない。たとえば俳句なら先に掲げた福田若之がそうであろうし、短歌なら木下龍也や平岡直子、詩なら最果タヒや文月悠光といった作家の名前があげられるだろうか。興味深いのは、これらの作家の多くが80年代後半から90年代前半の生まれであること、そうではない場合でもほとんどが2010年以降に頭角を現してきた作家たちだということだ。もちろんここで作家を世代で輪切りにして論じる気は毛頭ないが、しかしこれらの作家が東日本大震災や、その後の排他的な態度や差別的な発言が渦巻く現代の社会をリアルタイムに生き、かつ敏感に反応しているということは指摘しておいていいだろう(ちなみに先の引用句は震災直後の2011年4月17日に発表されている)。「しあわせがどう/しても要る」という切断されながらもなおしあわせを希求しなければならないという態度は、現代社会が抱える生きづらさの裏返しだと言えるだろうし、「弱いい派」と呼ばれる作家たちを多く生むことになった土壌は、この「どう/しても」という切断にこそあるのではないだろうか。

 (もちろん、松原俊太郎のように80年代後半の生まれでも「弱いい派」には属さない作家もいることは指摘しておかなければならない。ただ、松原戯曲においてもこの「どう/しても」という切断面は「弱いい派」とはまた別の形で見え隠れしているようにも思える。)

 

 ※

 

 前置きがずいぶん長くなってしまったが、コトリ会議『しずかミラクル』だ。

 『しずかミラクル』はSFディストピアだ。未来の地球が舞台だが、その地球は海がすべて干上がり、ほとんどの人間たちが宇宙人によって「駆除」され、しかもそう遠くないうちにブラックホールに呑み込まれて星ごと消えてなくなることが運命づけられている。設定だけ見るとずいぶん暗い話だが、75分程度の劇中で笑いが絶えなかったのは、脚本の構造や出演した役者が巧みだったこともあるが、それに加えて登場人物たちが人間も宇宙人も改造人間(?)も誰もがみな生きることの悩みや葛藤を抱えており、それがどうしようもなく滲み出てしまっている姿が逆に可笑しみとなって笑いを誘ったからなのだろう。彼ら彼女らの姿は、21世紀を生きるわたしたちの姿と重なる。いやむしろ、わたしたちよりももっと“正直”かもしれない。単なるメロドラマに陥りそうなシーンもどこかズレてしまうのは(それゆえ泣けばいいのか笑えばいいのかよくわからなくなるが)、この“正直”さゆえなのかもしれない。

 この舞台を観ながら思い出していたのは、平岡直子の「海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した」という短歌だ。この歌の「花火」の部分を「終末」「最期」といった言葉に置き換えれば、そのまま『しずかミラクル』の舞台を言い表しているようにみえてくる。この物語はきっと、命をどう弔うか、命とどう向き合うかという話だったのではないだろうか。命、というのは生きているもののことだけではなく、死んでしまったもの、これから死にゆくものも含めた命のことだ(もちろん死にゆくものには地球も含まれる)。途中、半ば唐突に出てきた“時間神様”が「人間て中途半端な奇跡やな」という言葉を残して去るが、だが命とはそもそもが「中途半端」なものではないか。ありきたりな言い方だが、ちょうどブラックホールへと突き進む地球のように、命は生まれた瞬間から死に向かうのだから、命はいつまで経っても完璧なものになることはない。だからこそ、人間だろうが宇宙人だろうが中途半端な存在でしかないからこそ、人は時に奇跡を求める―福田若之の俳句に即して言うならば、「ミラクルがどうしても要る」のだ。しかも、砂が零れ落ちる音のようにしずかなミラクルが。

 「人間は今あるがままで/救われるんだろうか/もし救われないのなら/今夜死ぬ人をどうすればいいんだい/もし救われるのなら/未来は何のためにあるんだろう」(谷川俊太郎「ニューヨークの東二十八丁目十四番地で書いた詩」より)。『しずかミラクル』に描かれる人々は、はたして救われたのだろうか。救われないとして、シズカや文代たちの死をどう悼めばいいのか。救われたとして、破滅しか待っていない未来をどう生きればいいのか。75分の間でなにかが解決したわけでもなければ、なにかが許されたわけでもない。それでも、海のない地球で、それこそさざ波のように登場人物たちがそれぞれの想いに揺れる姿は観る者のこころを打つ。

 舞台冒頭、「わたし、人間の失くしたものの名前がいいわ」と言う宇宙人の女性に対し、とおるは「シズカ」という名前を与える。おそらく、「シズカ」という名前を与えられた瞬間、彼女は海だけでなく、「人間が失くしたもの」すべてをその身に受け入れたのではないだろうか。だからこそ、この物語はシズカの死からはじまらなければならなかったのだろう。シズカの死をとおして、人間だけでなく、宇宙人までも、自分たちが「失くしたもの」と向き合わなければならない。「とおる」とはだから、シズカの死を「とおす」ことかもしれない。また、声や音が「とおる」ことかもしれない。死んだシズカの声はとおるには直接聴こえないけれど、シズカの声はいつもとおるに向けられていた。だからシズカの声はとおるをとおしてしかきっとこちらには届かない。彼女の口ずさむ「ざーぶざぶ、ざんざん」という、人間たちが失くしてしまった海の波の音(声)が、鎮魂歌のように頭のなかでいつまでも響いて離れない。

  

コトリ会議『しずかミラクル』

作・演出:山本正典/こまばアゴラ劇場(東京公演)/2018年6月13日~6月17日

公演情報:

sizumira.starfree.jp