スペースノットブランク『舞台らしき舞台されど舞台』(@カフェムリウイ 屋上劇場、観劇日:2018年9月8日17時の回)

 舞台の終盤にさしかかるときだった。演出家の中澤陽が椅子から立ち上がり、舞台奥の、観客から見て正面にあるカーテンを取り外すと、かなり大きめの窓が現れて、その向こうにはベランダと呼ぶには広すぎる空間があり、さらにその先には会場となった祖師谷の街並が広がっている。どうやら西を向いているらしいが、その日は曇っていたから、雲の裂け目がわずかに日没の橙色に染まっていたけれど、それもいつしか消えて街の上は一面の灰色に染まった。屋外の空間にはオープンカフェのように机や椅子が置かれていて、屋内にはいない人たちがそこにはいる。彼ら彼女らは、まるで幽霊のようにそこにいて、そこから窓越しにこちらのことを見ている。彼ら彼女らが中に入ってくるとき、それは死者の到来を思い起こさせる。

 この「舞台」を言葉で説明するのは難しい。なぜなら、この「舞台」は進行すればするほど完成する/されることから逃れようとするからだ。また、軸となるような筋もなく、役者たちが口にする話はどれも断片的で、「舞台」の物語を秩序立てて説明するというのも困難だ。そもそも、タイトルからして『舞台らしき舞台されど舞台』だ。この「舞台」ははじめから「舞台」と名指されることを拒否しているところがある。

 「舞台はいつ完成するのかっていう話で、技術という点で見るならば線の上を歩く、歩いている、時点で完成していると思います。技術としてではなくて、ひとつの物語的視点で見るならば、人が線の端から線の端まで、歩き終わった時点で、舞台は完成します。」当日パンフレットにはこのように書かれてある(おそらく演出家の言葉だろうが、この文章を誰が書いたのかは定かではない)。この「舞台」の構造としては、出番のある役者は屋内(会場となったカフェの中)で演じ、出番のない役者は屋外で待機している。演出家二人ははじめ屋内の「舞台」後方に左右に分かれて座っていて、音響や照明を操作し、随所で役者に指示を出し、場合によっては外に出る。最初、窓はカーテンで隠されていて、そのため外の様子ははっきりとは見えないが、外にいる人のことをシルエットとしてぼんやりと捉えることはできる。普通、舞台において出番のない役者(舞台に立っていない役者)というのは観客からは意識されないし、完全に舞台裏に隠れている(隠される)ものだ。だが、この「舞台」においては屋外にいる役者たちのことが容易に意識され得る。彼ら彼女らのことを“幽霊”のように感じたのは、おそらくそのせいだろう。そこにいないはずなのにいるものとして感知される存在。この「舞台」において<いる/いない>の境界はひどく曖昧だ。ひとつしかない扉からその“幽霊”が実体をもって出入りするとき、それはあたかもあの世とこの世とを死者が行き来しているように思えてくる。「しんでいます」と役者の口から何度も確認するように繰り返される言葉は、「しんで/〔ここに〕います」とも受け取れる。

 また、屋内と屋外の出入りというのは、「舞台」の延長線を引くことでもある。「舞台」を拡張させるように伸びる線。その線によって屋内だけでなく屋外もまた「舞台」と呼ばれ得る。だが同時に、屋内と屋外を隔てる扉はその線を断絶する。それによって線上を歩いていた役者は「舞台」から遮断され、今度は“点”となる。線は伸び、同時に点となる。役者はいつまでも歩き終わらず、同時に歩くことを奪われる。故にこの「舞台」は完成することはない。あるいは、<完成>を事前に与えられていない。絶えず変形する生物のように、この「舞台」は形を変え続ける。

 李禹煥は『余白の芸術』(みすず書房)の中で「固定した“物”ではなく、可変的な“事”に置き換えること」の重要性を指摘している。今回のスペースノットブランクの試みは(今回が初見なので、他の舞台作品と比べることができないが)、「舞台」を「固定した“物”」にするのではなく、「可変的な“事”に置き換える」試みであったといえるのではないか。「舞台」とは「固定」された言葉(戯曲)や身体(演出)を披露する場なのではなく、絶え間なく変化する出来事なのだ。無機物としての「舞台」ではなく、有機体としての「舞台」。全体を支配するのではなく、線と点が混在する空間。「全体もまたひとつの部分なのである」とは原広司『集落の教え 100』(彰国社)の中の言葉だが、「舞台」という空間もまた可変的な部分の連続でしかないだろう。完成された全体としてではなく、未完の部分の集合としての「舞台」。だから、「完成する/されることから逃れようとする」というのは、作品として未完成という意味ではなく、どのように完成する/されるのかその都度変わり得るということだ。<完成>とは人から与えられる“物”ではなく、自分で選ぶ“事”ではないか。「舞台」の<完成>とは、「舞台」の側から与えられるのではなく、観た人個人が選ぶ“事”なのだ。

 「舞台はこれからここにいる世界から出て行くための舞台だからです。」当日パンフレットにはこう書かれている。この「舞台」が終われば、観客は“幽霊”たちが出入りしていた扉から、外へと出て行く。外に出た空間は、さっきまで“幽霊”がいた場所で、だからそこは“あわい”の場所だ。生と死のあわい、日常と非日常のあわい、部分と全体のあわい、「舞台」と「舞台」じゃない空間とのあわい。ここから出て行くとき、そこはやっぱり日常の延長線上で、同時にきっと、線からは少しはみ出た、ここではないどこかだ。

  

スペースノットブランク『舞台らしき舞台されど舞台』

演出:小野彩加、中澤陽/カフェムリウイ 屋上劇場/2018年9月6日~9月9日

公演情報:

Theatre like Theatre but Theatre __ Ayaka Ono & Akira Nakazawa / Spacenotblank