『演劇クエスト 横濱パサージュ編』

  親しい風景たちの中でさえ

  世界の豊かさは難解だ

  ―谷川俊太郎『六十二のソネット』より

 

 

 風景は歩くことで変化する。

 どんなに見慣れた風景も、はじめてみる風景も、歩くことで刻々と風景は移り変わる。どんな風景も、ひとつとして昨日とおなじ風景というものはなく、どんな街も、わたしたちの知らない風景がどこかに潜んでいる。わたしたちがやって来ることを、どこかでひっそりと待っている。

 

 『演劇クエスト』は「冒険の書」を手に取るところからはじまる。「冒険の書」の構成は「ゲームブック」が下敷きとなっており、前から順番に本を読み進めるのではなく、指定された番号が付された段落に飛ぶことで、次に進むべき道が示される。「冒険の書」を手にしたプレイヤーはつかのま「冒険者」となって、まだ見ぬ風景の中へと旅立つことになる。

 『演劇クエスト』や「冒険の書」といった呼称からは、人気RPGドラゴンクエスト」を想起させるが、『演劇クエスト』が「ドラゴンクエスト」と異なるのは、明確なゴールが与えられていないことだ。「冒険の書」にはいくつかの章(ショートストーリー)があり(『横濱パサージュ編』だと11のショートストーリー)、たしかにそれぞれの章にゴール(最終目的地)はあるのだが、どのゴールもオープンエンドのようになっていて、各ストーリーの辿り着いた先でなにを得、なにを考えるか(あるいはなにを得られず、なにを失ったか)は冒険者ひとりひとりに委ねられている。実際、「冒険の書」の冒頭にも「ゴールにたどり着くことが『演劇クエスト』の目的ではない」と断りがあり、「冒険の過程において、あなたが何と出会うかが大事なのだ」と示されている。ラスボスを倒すでもなく、伝説の武器を手にするでもなく、冒険者たるあなたはあなただけのストーリーを紡いでいくことになる。

 「劇は「在る」のではなく「成る」のであ」るとは寺山修司が市街劇『ノック』の上演に関して記した言葉だが、寺山の言葉を都市の側から分析すれば、原広司『集落の教え100』からの次の引用のようになるだろう。「いずれの集落も、可能態としてある。『都市は劇場である』といった表現には、多様な意味がこめられているが、そのひとつに、都市はものであるというよりむしろことであって、さまざまな出来事がそこに展開される場所であるとする見解がこめられている。」(原広司『集落の教え100』、彰国社、1998年、46頁、原文は「もの」「こと」の下線部は傍点)。

 『演劇クエスト』は劇が「成る」瞬間、あるいは都市が「もの」ではなく「こと」として展開される瞬間を演出しているといえるのではないだろうか。寺山は次のようにもいう。「しかし、現実変革に向かうべき出会いを生成できない演劇は、生きた人間による展示物にとどまるものであり、本来的なドラマツルギーによる関係の喚起に及ぶものではないことはあきらかである」(『寺山修司劇場『ノック』 閉ざされたドア、閉ざされた心をノックしてみる』日東書院、2013年、129頁)。『演劇クエスト』を「本来的なドラマツルギーによる関係の喚起」と呼ぶのはやや強引かもしれないが、だがたんなる「展示物」「もの」としての演劇(<在る>演劇)ではなく、「出会い」を生成し「こと」を惹き起こす演劇(<成る>演劇)であるとはいえるように思える。実際、『演劇クエスト』はたくさんの「出会い」を生み出す可能性に満ちている。それはまだ出会ったことのない風景かもしれないし、知られざる過去かもしれないし、来たるべき未来かもしれない。あるいはスナックのママさんかもしれないし、魔女かもしれないし、他の冒険者かもしれない。劇場に足を運ぶだけではけっしてできない出会いや体験を、冒険者は『演劇クエスト』をとおしてすることになるだろう。舞台があり、脚本があり、役者がいて観客がいて・・・といったように事前に準備され与えられるものだけが「演劇」になるわけではない。街も、そこに行き交う人々も、隠された風景も、いまここにあり息づいているもの(失ったものや目に見えないものも含めて)はすべて「演劇」となる可能性を秘めている。『演劇クエスト』は、その可能性を喚起し(呼び起こし)、つかのま「演劇」として立ち上がらせるひとつの装置だといえるのではないだろうか。

 「詩は常に未完の作品であり、新たな読者によって完成され、生きられようとして身構えている」。これはオクタビオ・パスの詩論『弓と竪琴』中の引用だが、オクタビオ・パスのこの言葉の「詩」を「街」に置き換えれば、これはあたかも『演劇クエスト』のことをいっているように思える。たんに美辞麗句を並べるだけでは詩が完成しないように、街は超高層ビルや立派な競技場や華麗な娯楽施設などが建設されることで完成するわけではない。重要なのは「新たな読者」=「冒険者」による新たな人(あるいは風景)との出会いなのだ。街はこの新たな出会いをとおしてはじめて生きはじめる。でなければ、街はただの人工物のひしめく無機質な空間でしかなくなるだろう。冒頭の谷川俊太郎の詩の引用にもあるように、街は、風景は、いつも難解さという豊かさへとひらかれている。「豊かさ」というのは完結していない(閉じられていない)ということ、つまり常になにかが生まれつづける余白があるということだ。そしてこの余白を通過(パサージュ)し、風景に生を吹き込むのは、「冒険者」たるあなたなのだ。

 

 

『演劇クエスト 横濱パサージュ編』

制作:横浜市中区役所、BricolaQ+港の探偵団/場所:横浜市中区

 

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