スペースノットブランク『舞台らしき舞台されど舞台』(@カフェムリウイ 屋上劇場、観劇日:2018年9月8日17時の回)

 舞台の終盤にさしかかるときだった。演出家の中澤陽が椅子から立ち上がり、舞台奥の、観客から見て正面にあるカーテンを取り外すと、かなり大きめの窓が現れて、その向こうにはベランダと呼ぶには広すぎる空間があり、さらにその先には会場となった祖師谷の街並が広がっている。どうやら西を向いているらしいが、その日は曇っていたから、雲の裂け目がわずかに日没の橙色に染まっていたけれど、それもいつしか消えて街の上は一面の灰色に染まった。屋外の空間にはオープンカフェのように机や椅子が置かれていて、屋内にはいない人たちがそこにはいる。彼ら彼女らは、まるで幽霊のようにそこにいて、そこから窓越しにこちらのことを見ている。彼ら彼女らが中に入ってくるとき、それは死者の到来を思い起こさせる。

 この「舞台」を言葉で説明するのは難しい。なぜなら、この「舞台」は進行すればするほど完成する/されることから逃れようとするからだ。また、軸となるような筋もなく、役者たちが口にする話はどれも断片的で、「舞台」の物語を秩序立てて説明するというのも困難だ。そもそも、タイトルからして『舞台らしき舞台されど舞台』だ。この「舞台」ははじめから「舞台」と名指されることを拒否しているところがある。

 「舞台はいつ完成するのかっていう話で、技術という点で見るならば線の上を歩く、歩いている、時点で完成していると思います。技術としてではなくて、ひとつの物語的視点で見るならば、人が線の端から線の端まで、歩き終わった時点で、舞台は完成します。」当日パンフレットにはこのように書かれてある(おそらく演出家の言葉だろうが、この文章を誰が書いたのかは定かではない)。この「舞台」の構造としては、出番のある役者は屋内(会場となったカフェの中)で演じ、出番のない役者は屋外で待機している。演出家二人ははじめ屋内の「舞台」後方に左右に分かれて座っていて、音響や照明を操作し、随所で役者に指示を出し、場合によっては外に出る。最初、窓はカーテンで隠されていて、そのため外の様子ははっきりとは見えないが、外にいる人のことをシルエットとしてぼんやりと捉えることはできる。普通、舞台において出番のない役者(舞台に立っていない役者)というのは観客からは意識されないし、完全に舞台裏に隠れている(隠される)ものだ。だが、この「舞台」においては屋外にいる役者たちのことが容易に意識され得る。彼ら彼女らのことを“幽霊”のように感じたのは、おそらくそのせいだろう。そこにいないはずなのにいるものとして感知される存在。この「舞台」において<いる/いない>の境界はひどく曖昧だ。ひとつしかない扉からその“幽霊”が実体をもって出入りするとき、それはあたかもあの世とこの世とを死者が行き来しているように思えてくる。「しんでいます」と役者の口から何度も確認するように繰り返される言葉は、「しんで/〔ここに〕います」とも受け取れる。

 また、屋内と屋外の出入りというのは、「舞台」の延長線を引くことでもある。「舞台」を拡張させるように伸びる線。その線によって屋内だけでなく屋外もまた「舞台」と呼ばれ得る。だが同時に、屋内と屋外を隔てる扉はその線を断絶する。それによって線上を歩いていた役者は「舞台」から遮断され、今度は“点”となる。線は伸び、同時に点となる。役者はいつまでも歩き終わらず、同時に歩くことを奪われる。故にこの「舞台」は完成することはない。あるいは、<完成>を事前に与えられていない。絶えず変形する生物のように、この「舞台」は形を変え続ける。

 李禹煥は『余白の芸術』(みすず書房)の中で「固定した“物”ではなく、可変的な“事”に置き換えること」の重要性を指摘している。今回のスペースノットブランクの試みは(今回が初見なので、他の舞台作品と比べることができないが)、「舞台」を「固定した“物”」にするのではなく、「可変的な“事”に置き換える」試みであったといえるのではないか。「舞台」とは「固定」された言葉(戯曲)や身体(演出)を披露する場なのではなく、絶え間なく変化する出来事なのだ。無機物としての「舞台」ではなく、有機体としての「舞台」。全体を支配するのではなく、線と点が混在する空間。「全体もまたひとつの部分なのである」とは原広司『集落の教え 100』(彰国社)の中の言葉だが、「舞台」という空間もまた可変的な部分の連続でしかないだろう。完成された全体としてではなく、未完の部分の集合としての「舞台」。だから、「完成する/されることから逃れようとする」というのは、作品として未完成という意味ではなく、どのように完成する/されるのかその都度変わり得るということだ。<完成>とは人から与えられる“物”ではなく、自分で選ぶ“事”ではないか。「舞台」の<完成>とは、「舞台」の側から与えられるのではなく、観た人個人が選ぶ“事”なのだ。

 「舞台はこれからここにいる世界から出て行くための舞台だからです。」当日パンフレットにはこう書かれている。この「舞台」が終われば、観客は“幽霊”たちが出入りしていた扉から、外へと出て行く。外に出た空間は、さっきまで“幽霊”がいた場所で、だからそこは“あわい”の場所だ。生と死のあわい、日常と非日常のあわい、部分と全体のあわい、「舞台」と「舞台」じゃない空間とのあわい。ここから出て行くとき、そこはやっぱり日常の延長線上で、同時にきっと、線からは少しはみ出た、ここではないどこかだ。

  

スペースノットブランク『舞台らしき舞台されど舞台』

演出:小野彩加、中澤陽/カフェムリウイ 屋上劇場/2018年9月6日~9月9日

公演情報:

Theatre like Theatre but Theatre __ Ayaka Ono & Akira Nakazawa / Spacenotblank

『演劇クエスト 横濱パサージュ編』

  親しい風景たちの中でさえ

  世界の豊かさは難解だ

  ―谷川俊太郎『六十二のソネット』より

 

 

 風景は歩くことで変化する。

 どんなに見慣れた風景も、はじめてみる風景も、歩くことで刻々と風景は移り変わる。どんな風景も、ひとつとして昨日とおなじ風景というものはなく、どんな街も、わたしたちの知らない風景がどこかに潜んでいる。わたしたちがやって来ることを、どこかでひっそりと待っている。

 

 『演劇クエスト』は「冒険の書」を手に取るところからはじまる。「冒険の書」の構成は「ゲームブック」が下敷きとなっており、前から順番に本を読み進めるのではなく、指定された番号が付された段落に飛ぶことで、次に進むべき道が示される。「冒険の書」を手にしたプレイヤーはつかのま「冒険者」となって、まだ見ぬ風景の中へと旅立つことになる。

 『演劇クエスト』や「冒険の書」といった呼称からは、人気RPGドラゴンクエスト」を想起させるが、『演劇クエスト』が「ドラゴンクエスト」と異なるのは、明確なゴールが与えられていないことだ。「冒険の書」にはいくつかの章(ショートストーリー)があり(『横濱パサージュ編』だと11のショートストーリー)、たしかにそれぞれの章にゴール(最終目的地)はあるのだが、どのゴールもオープンエンドのようになっていて、各ストーリーの辿り着いた先でなにを得、なにを考えるか(あるいはなにを得られず、なにを失ったか)は冒険者ひとりひとりに委ねられている。実際、「冒険の書」の冒頭にも「ゴールにたどり着くことが『演劇クエスト』の目的ではない」と断りがあり、「冒険の過程において、あなたが何と出会うかが大事なのだ」と示されている。ラスボスを倒すでもなく、伝説の武器を手にするでもなく、冒険者たるあなたはあなただけのストーリーを紡いでいくことになる。

 「劇は「在る」のではなく「成る」のであ」るとは寺山修司が市街劇『ノック』の上演に関して記した言葉だが、寺山の言葉を都市の側から分析すれば、原広司『集落の教え100』からの次の引用のようになるだろう。「いずれの集落も、可能態としてある。『都市は劇場である』といった表現には、多様な意味がこめられているが、そのひとつに、都市はものであるというよりむしろことであって、さまざまな出来事がそこに展開される場所であるとする見解がこめられている。」(原広司『集落の教え100』、彰国社、1998年、46頁、原文は「もの」「こと」の下線部は傍点)。

 『演劇クエスト』は劇が「成る」瞬間、あるいは都市が「もの」ではなく「こと」として展開される瞬間を演出しているといえるのではないだろうか。寺山は次のようにもいう。「しかし、現実変革に向かうべき出会いを生成できない演劇は、生きた人間による展示物にとどまるものであり、本来的なドラマツルギーによる関係の喚起に及ぶものではないことはあきらかである」(『寺山修司劇場『ノック』 閉ざされたドア、閉ざされた心をノックしてみる』日東書院、2013年、129頁)。『演劇クエスト』を「本来的なドラマツルギーによる関係の喚起」と呼ぶのはやや強引かもしれないが、だがたんなる「展示物」「もの」としての演劇(<在る>演劇)ではなく、「出会い」を生成し「こと」を惹き起こす演劇(<成る>演劇)であるとはいえるように思える。実際、『演劇クエスト』はたくさんの「出会い」を生み出す可能性に満ちている。それはまだ出会ったことのない風景かもしれないし、知られざる過去かもしれないし、来たるべき未来かもしれない。あるいはスナックのママさんかもしれないし、魔女かもしれないし、他の冒険者かもしれない。劇場に足を運ぶだけではけっしてできない出会いや体験を、冒険者は『演劇クエスト』をとおしてすることになるだろう。舞台があり、脚本があり、役者がいて観客がいて・・・といったように事前に準備され与えられるものだけが「演劇」になるわけではない。街も、そこに行き交う人々も、隠された風景も、いまここにあり息づいているもの(失ったものや目に見えないものも含めて)はすべて「演劇」となる可能性を秘めている。『演劇クエスト』は、その可能性を喚起し(呼び起こし)、つかのま「演劇」として立ち上がらせるひとつの装置だといえるのではないだろうか。

 「詩は常に未完の作品であり、新たな読者によって完成され、生きられようとして身構えている」。これはオクタビオ・パスの詩論『弓と竪琴』中の引用だが、オクタビオ・パスのこの言葉の「詩」を「街」に置き換えれば、これはあたかも『演劇クエスト』のことをいっているように思える。たんに美辞麗句を並べるだけでは詩が完成しないように、街は超高層ビルや立派な競技場や華麗な娯楽施設などが建設されることで完成するわけではない。重要なのは「新たな読者」=「冒険者」による新たな人(あるいは風景)との出会いなのだ。街はこの新たな出会いをとおしてはじめて生きはじめる。でなければ、街はただの人工物のひしめく無機質な空間でしかなくなるだろう。冒頭の谷川俊太郎の詩の引用にもあるように、街は、風景は、いつも難解さという豊かさへとひらかれている。「豊かさ」というのは完結していない(閉じられていない)ということ、つまり常になにかが生まれつづける余白があるということだ。そしてこの余白を通過(パサージュ)し、風景に生を吹き込むのは、「冒険者」たるあなたなのだ。

 

 

『演劇クエスト 横濱パサージュ編』

制作:横浜市中区役所、BricolaQ+港の探偵団/場所:横浜市中区

 

yokohama-sozokaiwai.jp

コトリ会議『しずかミラクル』(@こまばアゴラ劇場、観劇日:2018年6月17日16時の回)

  ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

 

 この句は若手の俳人、福田若之の代表句である。この句に関する俳人佐藤文香上田信治の解説を少し引用してみたい。

 

佐藤 この句も、「しあわせが要る」に「どうしても」をどうしても入れなきゃいけない。「どうしてもしあわせが要るヒヤシンス」じゃ全然だめですよね。

上田 5音の「どうしても」が、ここに入ることで突き上げてくるものがあるよね。

佐藤文香編著、『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』、左右社、2017年、14頁。)

 

 ここで少し専門的な話をすると、この句は“句跨り”という技法が用いられていて、言葉が5・7・5のリズムに綺麗に収まるのではなく、7・5のところで言葉が跨っている。実際に引用句を5・7・5のリズムに区切ってみると、

 

  ヒヤシンス/しあわせがどう/しても要る

 

 となる。つまり、「どうしても」という言葉が「どう」と「しても」に切断されていることがわかる。佐藤と上田の指摘はこの“句跨り”から得られる効果を強調しているわけだが、この「どう/しても」というように切断されながらもそれでもなお最後まで言い切らなければならないという態度は、俳句に限らず現在の(いわゆる)若手作家たちの作品を見ていく上で非常に重要なポイントになるように思える。

 

 演劇ジャーナリストの徳永京子氏が先日twitter上で「弱いい派」という流派を新たに命名し、贅沢貧乏、ゆうめい、コトリ会議、範宙遊泳・・・といった劇団名をあげられていたが(2018年6月14日付のtwitter)、たとえば範宙遊泳『その夜と友達』、贅沢貧乏『テンテン』、ジエン社『物の所有を学ぶ庭』といった作品群は、共通して「どう/しても」という態度に貫かれているように思う。これらの作品はかつて隆盛を極めた演劇のように観る者に正面きって何かを熱く語ったりするのでもなく、またその後に続く演劇のように現実の社会を淡々とそのまま描き出すというのとも違う。彼ら彼女らの作品がそれまでの演劇と決定的に違うのは、おそらく絶望しそうなほどどうしようもない世界を描きつつも、それでもなお「どう/しても」というように言葉が切断されながら、あるいは吃ってしまいながらも、「しあわせ」を希求しようとしている点にあるのではないだろうか。「しあわせ」という言葉が大仰に聞こえるのであれば、自分の生きられる場所/呼吸できる場所と言い換えてもいいかもしれない。そういったものを「どう/しても」求めようとする態度が、これらの作家の作品には共通して貫かれている。

 「弱いい派」は演劇の流派に対する命名だったが、おそらくこれは演劇に限った話ではない。たとえば俳句なら先に掲げた福田若之がそうであろうし、短歌なら木下龍也や平岡直子、詩なら最果タヒや文月悠光といった作家の名前があげられるだろうか。興味深いのは、これらの作家の多くが80年代後半から90年代前半の生まれであること、そうではない場合でもほとんどが2010年以降に頭角を現してきた作家たちだということだ。もちろんここで作家を世代で輪切りにして論じる気は毛頭ないが、しかしこれらの作家が東日本大震災や、その後の排他的な態度や差別的な発言が渦巻く現代の社会をリアルタイムに生き、かつ敏感に反応しているということは指摘しておいていいだろう(ちなみに先の引用句は震災直後の2011年4月17日に発表されている)。「しあわせがどう/しても要る」という切断されながらもなおしあわせを希求しなければならないという態度は、現代社会が抱える生きづらさの裏返しだと言えるだろうし、「弱いい派」と呼ばれる作家たちを多く生むことになった土壌は、この「どう/しても」という切断にこそあるのではないだろうか。

 (もちろん、松原俊太郎のように80年代後半の生まれでも「弱いい派」には属さない作家もいることは指摘しておかなければならない。ただ、松原戯曲においてもこの「どう/しても」という切断面は「弱いい派」とはまた別の形で見え隠れしているようにも思える。)

 

 ※

 

 前置きがずいぶん長くなってしまったが、コトリ会議『しずかミラクル』だ。

 『しずかミラクル』はSFディストピアだ。未来の地球が舞台だが、その地球は海がすべて干上がり、ほとんどの人間たちが宇宙人によって「駆除」され、しかもそう遠くないうちにブラックホールに呑み込まれて星ごと消えてなくなることが運命づけられている。設定だけ見るとずいぶん暗い話だが、75分程度の劇中で笑いが絶えなかったのは、脚本の構造や出演した役者が巧みだったこともあるが、それに加えて登場人物たちが人間も宇宙人も改造人間(?)も誰もがみな生きることの悩みや葛藤を抱えており、それがどうしようもなく滲み出てしまっている姿が逆に可笑しみとなって笑いを誘ったからなのだろう。彼ら彼女らの姿は、21世紀を生きるわたしたちの姿と重なる。いやむしろ、わたしたちよりももっと“正直”かもしれない。単なるメロドラマに陥りそうなシーンもどこかズレてしまうのは(それゆえ泣けばいいのか笑えばいいのかよくわからなくなるが)、この“正直”さゆえなのかもしれない。

 この舞台を観ながら思い出していたのは、平岡直子の「海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した」という短歌だ。この歌の「花火」の部分を「終末」「最期」といった言葉に置き換えれば、そのまま『しずかミラクル』の舞台を言い表しているようにみえてくる。この物語はきっと、命をどう弔うか、命とどう向き合うかという話だったのではないだろうか。命、というのは生きているもののことだけではなく、死んでしまったもの、これから死にゆくものも含めた命のことだ(もちろん死にゆくものには地球も含まれる)。途中、半ば唐突に出てきた“時間神様”が「人間て中途半端な奇跡やな」という言葉を残して去るが、だが命とはそもそもが「中途半端」なものではないか。ありきたりな言い方だが、ちょうどブラックホールへと突き進む地球のように、命は生まれた瞬間から死に向かうのだから、命はいつまで経っても完璧なものになることはない。だからこそ、人間だろうが宇宙人だろうが中途半端な存在でしかないからこそ、人は時に奇跡を求める―福田若之の俳句に即して言うならば、「ミラクルがどうしても要る」のだ。しかも、砂が零れ落ちる音のようにしずかなミラクルが。

 「人間は今あるがままで/救われるんだろうか/もし救われないのなら/今夜死ぬ人をどうすればいいんだい/もし救われるのなら/未来は何のためにあるんだろう」(谷川俊太郎「ニューヨークの東二十八丁目十四番地で書いた詩」より)。『しずかミラクル』に描かれる人々は、はたして救われたのだろうか。救われないとして、シズカや文代たちの死をどう悼めばいいのか。救われたとして、破滅しか待っていない未来をどう生きればいいのか。75分の間でなにかが解決したわけでもなければ、なにかが許されたわけでもない。それでも、海のない地球で、それこそさざ波のように登場人物たちがそれぞれの想いに揺れる姿は観る者のこころを打つ。

 舞台冒頭、「わたし、人間の失くしたものの名前がいいわ」と言う宇宙人の女性に対し、とおるは「シズカ」という名前を与える。おそらく、「シズカ」という名前を与えられた瞬間、彼女は海だけでなく、「人間が失くしたもの」すべてをその身に受け入れたのではないだろうか。だからこそ、この物語はシズカの死からはじまらなければならなかったのだろう。シズカの死をとおして、人間だけでなく、宇宙人までも、自分たちが「失くしたもの」と向き合わなければならない。「とおる」とはだから、シズカの死を「とおす」ことかもしれない。また、声や音が「とおる」ことかもしれない。死んだシズカの声はとおるには直接聴こえないけれど、シズカの声はいつもとおるに向けられていた。だからシズカの声はとおるをとおしてしかきっとこちらには届かない。彼女の口ずさむ「ざーぶざぶ、ざんざん」という、人間たちが失くしてしまった海の波の音(声)が、鎮魂歌のように頭のなかでいつまでも響いて離れない。

  

コトリ会議『しずかミラクル』

作・演出:山本正典/こまばアゴラ劇場(東京公演)/2018年6月13日~6月17日

公演情報:

sizumira.starfree.jp

ミクニヤナイハラプロジェクト『曖昧な犬』 (@吉祥寺シアター、観劇日:2018年3月24日18時の回)

 なにかに触れようとする姿は、祈りの姿に似ている。

 閉ざされた部屋に閉じ込められた三人の男たち。鍵はあるのに扉は開かず、窓はあるのに高すぎて手が届かない。舞台の四隅には監視カメラが不気味にそそり立ち、彼らの姿を映しとる。なぜ部屋に閉じ込められたのか?なぜここにいるのか?男たちは知り合いなのか赤の他人なのか?生きているのか死んでいるのか?そもそも自分は誰なのか?・・・・・・すべてが曖昧なまま男たちは閉ざされた部屋から必死に脱け出そうと部屋のなかで走り回り、叫び、手を伸ばしつづける。たとえそれが無駄なことだとわかっていたとしても。

 彼らの姿は権力や暴力などによって抑圧され、どこにも声を届けることができない者たちの姿とだぶってくる。自分の声が誰かに届くなどとても信じられないような状況のなかでも、それでもなお言葉を発し続けること(ちょうどシリアの東グータで姉妹の子どもがツイッターで声を発信しつづけたように)。それはここではないどこかへ必死に触れようとすることだ。

 「窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない」。田村隆一は「幻を見る人」という詩の中でこのように書いた。この詩は次のようにつづく。「どうしてそうなのかわたしには分らない/ただどうしてそうなのかをわたしは感じる」(『現代詩文庫1 田村隆一詩集』、思潮社、1968年、8頁、「/」は改行を示す)。

 なぜ彼らは部屋に閉じ込められたのか、なぜ彼らは声を嗄らしてまで叫びつづけるのか―「どうしてそうなのか」という理屈はここでは重要ではない。「ただどうしてそうなのかをわたしは感じる」―つまり、どうしようもなくそうしなければ(そうでなければ)ならない、ということを感じようとする、声なき声に耳を傾けようとする態度こそが、ここでは重要だ。でなければ、壁を隔てたむこう側の叫びや、地球の反対側で上げられている叫びを聴き取ることは決してできない。

 また、田村は「Nu」という詩で次のようにも書いている。「窓のない部屋があるように/心の世界には部屋のない窓がある」(『現代詩文庫1 田村隆一詩集』、10頁)。男たちが閉ざされていた部屋も、「部屋のない窓」といえるかもしれない。実際、舞台のラストは部屋(壁)などはじめからなかったかのように三人で外に出てコンビニへ出かけるというシーンでおわる。彼らは物理的な部屋に閉じ込められていたというより、「心の世界」にある「部屋のない窓」に閉じ込められていた、あるいは自ら閉ざしていたのではないか?

 窓というのはみるものの視点によって外側にも内側にもなる。劇中、彼らは監視カメラに向かって監視されているのは自分たちなのではなく、逆に自分たちの方がカメラのむこう側の人間を監視しているんだ、というようなことを言う。窓一枚、カメラ一つ隔てただけで外側と内側が容易に反転しうる世界。彼らの記憶も曖昧だったが、自分の立っている立場だったり、自分を支えていると信じている基盤だったりもまた、実はとても曖昧として不安定なものでしかない。「沢山の経験をしてきたのに、自分が本当は何を経験したのかなんて、実はよく分かっていない」という台詞は、この不安を端的にあらわしているように思える。劇中、この三人の男たちは実は同一人物(三人ではなく実は一人だけ)なのではないかと思った瞬間があったが、それはおそらくこの「自分」というものの存在理由の曖昧さによるのだろう。

 けっきょく、この舞台上ではっきりとたしかだと思えるものは、彼らの叫びだけしかない。叫びとは全力でなにかに触れようとする姿のあらわれだ。剥き出しの身体が剥き出しの言葉を吐き出す。その言葉は意味を成さないかもしれないが、しかしその言葉はもはや祈りの領域に近い。そして手を伸ばすという行為は、人を生かし、自分を生かす行為だ。たとえすでにたくさんの人間にべたべたと触れられてしまったものであっても、それでもなお触れることができるものには触れようとすることをやめてはならない、といった台詞が劇中にあったが、それはたとえ絶望的な状況にあってもなお生きることをやめては決してならないということだ。奇しくも大崎清夏の詩集『新しい住みか』のなかに、次のような一節がある。「部屋はまだ絶望していません/出ていくことができるはずです/いい窓がありますから」(「テロリストたち」、『新しい住みか』、青土社、2018年、25頁)。舞台のラストに何事もなかったかのように三人でコンビニへむかい、街の喧騒のなかに消えていく男たちの姿は、とてもささいな日常のようにみえて、もしかしたらかけがえのない奇跡なのかもしれない。

 

 

ミクニヤナイハラプロジェクトvol. 11『曖昧な犬』

作・演出:矢内原美邦吉祥寺シアター/2018年3月22日~25日

公演情報:

+++曖昧な犬+++

範宙遊泳『もうはなしたくない』(@早稲田小劇場どらま館、観劇日:2018年3月11日14時の回)

 人は誰しも少しずつ変である。

 「変」というのはいわゆる「変人」とか「狂人」とかいう意味ではなく、自分(他者)と他者(自分)とは異なる人間である、という意味において、人は誰しもが誰とも変でありうる。

 だが、この「変」というのはいくらかの恥ずかしさや気まずさ、あるいは劣等感や嫌悪感を時に引き起こす。たとえば日常の中で、「あの子、ちょっと変わってるよね」と話したり、誰かの(当人にとっては当たり前だと思っている)ある言動に対して、「ちょっとそれおかしくない?」とからかったりして、笑いの種にしたことはないだろうか?あるいは、現代のような均一化を求めるような社会では、「変」である(人と異なる)ということは社会や経済を停滞させる要因であるようにあたかも見做されるかもしれない。そうなると人はその「変」である部分を隠そうとして、いわゆる「通常の」人間を演じようとする。演じることで、「変」であることで引き起こされ得る恥ずかしさや劣等感みたいなものを覆い隠そうとする。松井周(サンプル)の言葉を借りるのであれば、人は誰しもPlayしている。

 『もうはなしたくない』に登場する三人の女性(吉村アカネ、南雲マキ、香坂メグ)は、ある理由から劇中それぞれをコードネーム(肉左衛門、バービー、リカちゃん)で呼び合うことになる。メインとなる舞台(メグが住んでいるアパートの一室)もドールハウスのような様相を呈しており、あたかも彼女たち自身が人形(彼女たちの衣装は着せ替え人形の衣装のように華やかだ)となって「ごっこ遊び」に高じているといった趣向で話は進む。

だが、話の途中から「ごっこ遊び」と現実の出来事との境界線が曖昧となり、彼女たち自身遊びを演じているのかどうかが分からなくなっていく。アカネが働いているカフェで遭遇した二人の女性の修羅場を再現しているだけだったのが、次第に彼女たち自身の過去や未来とシンクロしていき、破滅的な現実へと突入していきそうになる。

この混乱した状況を救うのが肉左衛門(アカネ)である。彼女は着ていた服を脱ぎ捨て、服の下に隠していた「モビルスーツ」を露わにさせる。そして「こんなおかしな恰好をしたメイド(カフェの店員)がいるわけないでしょ!だから(ごっこ遊びの内容は)現実にはならない!」と高々に宣言する。この場面では彼女の「変」が状況を救うように働いている。彼女が自身の「変」を曝け出すことで、破滅へと進むかに見えた物語の軌道を大きく逸らせることに成功したのだった。

 もしこの話がこのまま終われば劇は円満に済んだであろう。だがこの直後に“天狗”が登場することで、事態は一変する。この“天狗”は隣室に住むメグ(リカちゃん)の彼氏なのだが、酒に酔った勢いでメグの部屋に闖入してきてしまう。だが実は彼のことが“天狗”のように見えているのはアカネだけで、他の二人には普通の男性の姿に見えているらしい。アカネは極度の男性嫌いで、その結果酔っ払った男が天狗のような化け物に見えてしまったのだった。嫌悪感をむき出しにするアカネに対し、マキ(バービー)は「男も人間だし、人間でなくとも少なくとも生き物だよ」と諭すが、アカネはマキの言葉も頑として拒絶し、部屋を飛び出してしまう。

 この時の彼女はもはや「肉左衛門」ではなくなっている。あるいは「アカネ」ですらなくなっているかもしれない。また、彼女を追いかける他の二人も、マキはもはや「マキ」でも「バービー」でもなく、兎の仮面を被った化け物だし、メグはもはや「メグ」でも「リカちゃん」でもなく、全身びしょ濡れで長い髪を顔面に貼り付け、巨大なフォークを携えた悪魔のような姿である。それはアカネの不安や混乱を反映してのことだろうが、それ以上に日常信じていた見せかけの真実みたいなものがボロボロと剝がれ落ちていく瞬間のようにも見える。そこはもうドールハウスの舞台でもないし、コードネームという見せかけの名前や役割に守られた場所でもない。

 追いかける二人(化け物)に追いつかれたアカネは、しかし最後には彼女たちのことを受け容れる。それは彼女たちが(たとえ化け物のように見えたとしても)、アカネのことを必要としたからだ。そしておそらく、アカネもまた彼女たちのことを必要としたからだろう。アカネは彼女たちに言う。「じゃ、みんな変ってことで」。

 この一言をアカネが発した瞬間、PlayがPray(祈り)に変わったように思えた。若松英輔は『生きる哲学』の中で、「祈りは、願いではない。むしろ、祈るとは、願うことを止め、何ものかのコトバを身に受けることではないだろうか」(『生きる哲学』、文芸春秋、2014年、64頁)と言う。アカネが「みんな変ってことで」という言葉を発する前は、おそらく彼女は「こうあってほしい」という自分の願望を他人や世間に抱いていただろう。メグの彼氏が天狗に見えたり、彼女を追いかける友人たちが化け物に見えたりするのは、「こうあってほしい」という彼女の願望の裏返しとも言える。つまり、彼女の願望から外れてしまったが故に、彼女の友人たちはそのような化け物じみた姿として具象化されてしまったのだろう。だが、「じゃ、みんな変ってことで」という言葉を持つことで、アカネは自分自身の「変」をただ主張するだけでなく、自分以外の「変」であるものをも受け容れた。それはつまり見せかけの均一化された存在を越えて、自分以外の異なる存在に触れたということだ。アカネのこの言葉の後、へんてこな恰好のまま(アカネはモビルスーツの恰好のままだ)、三人で手をつないで歩くシーンは、あたかも祈りの姿に似ている。祈りとはおそらく、自分とは異なるものとなんらかのかたちで触れる(あるいは触れようとする)ということだ。この最後のシーンで、「もう話したくない」という拒絶は、「もう離したくない」という祈りに変わる。最後に仲良くカラオケする三人の姿が影絵になって映し出される光景は、排他的な言動がはびこり、もはや破滅的な道を進むかに見える現代の社会であっても、いつかは破滅から逸れた道を歩むことができるかもしれないという希望を抱かせてくれる。

  

 

範宙遊泳『もうはなしたくない』

作・演出:山本卓卓/早稲田小劇場どらま館/2018年3月3日~11日

公演情報:

演劇 | 範宙遊泳/Theater Collective HANCHU-YUEI